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今日、9月5日は国民栄誉賞の日。第1号受賞者、王貞治の偉大な足跡を振り返る

今日、9月5日は国民栄誉賞の日。第1号受賞者、王貞治の偉大な足跡を振り返る

今日、9月5日は「国民栄誉賞の日」。1977(昭和52)年のこの日、2日前に通算ホームラン数の世界最高記録を作った王貞治に国民栄誉賞第1号が贈られたのだ。日本プロ野球史を語る上でもとても大切な日だからこそ、今一度、「王貞治・国民栄誉賞への道」を振り返ってみたい。

◎初ヒットが初ホームラン

1959(昭和34)年、「甲子園優勝投手」の肩書きを引っさげ、鳴り物入りで早稲田実業から巨人に入団した王貞治。しかし。プロ入り後すぐに投手の才能は見限られ、打者に専念するよう指示される。

王にとって幸運だったのは、入団前年の1958(昭和33)年に川上哲治が引退していたこと。一塁手のレギュラーの座が空いていたため、高卒新人ながら1年目から94試合に出場することができたのだ。川上の引退が1年早くても遅くても、一塁手・王貞治の誕生はもっと遅れていた可能性がある。

開幕戦から7番・一塁手で先発起用された王だったが、国鉄の開幕投手・金田正一の前に2打数2三振1四球。長嶋茂雄のデビュー戦における4打数4三振のインパクトには及ばないが、ON2人が揃って金田正一を相手に「三振デビュー」していたのはなんとも興味深い。

その後も打てない日々が続いた王だったが、4月26日、プロ入り27打席目に待望のプロ初ヒットが飛び出す。国鉄・村田元一を相手に記録した、その初ヒットは右翼席に飛び込むホームランだった。初安打が初ホームラン……これこそ、のちの「世界のホームラン王」の第一歩にふさわしい。

その後、6月25日に後楽園球場で行われた「天覧試合」では、長嶋茂雄との初のONアベックアーチも飛び出した。歴史的な大試合で初のアベックアーチを記録するあたり、長嶋茂雄に負けず劣らずのスターの資質を感じさせる1年目だった。

ちなみにこの1年目のある雨の日、雨宿り中に偶然出会った女性が、後の恭子夫人である。

◎駄目もとで生まれた一本足打法

その後、3年目までは伸び悩んだ王だったが、4年目のシーズンに転機が訪れる。前年オフに学生時代の恩師でもある荒川博が巨人の打撃コーチに就任したのだ。2人で昼夜を問わず特訓を続けながら迎えた7月1日、運命の日が訪れる。

この日の試合前、スタッフミーティングで投手コーチの別所毅彦と口論になった荒川。「投手陣は立ち直ってきているのに打線は何をしてる。王はいったい何なんだ!」と詰め寄られ、カッとなった荒川は「王に本塁打を打たせる!」と宣言。そこで苦肉の策として飛び出したのが「今日は足を上げて打て」というアドバイスだった。

王と荒川が一本足打法について検討し始めたのは、その前日の6月30日夜のこと。つまり王はたった一晩しか一本足の練習をしておらず、ほぼぶっつけ本番の「一本足デビュー」だった。ところが、この試合で王は5打数3安打の大当たり。しかも、宣言どおりのホームランも飛び出したのだ。この日から、王の一本足打法伝説が始まる。

◎日本中が沸いたベーブ・ルース超え

一本足打法を始めた1962(昭和37)年に38本塁打で初のホームラン王に輝くと、以降の王はありとあらゆるホームラン記録を塗り替えていった。

・13年連続本塁打王【通算ではホームラン王15回※日本記録】
・4打席連続本塁打【1964(昭和39)年5月3日※日本タイ記録】
・7試合連続本塁打【1972(昭和47)年9月11日~9月20日※日本タイ記録】
・シーズン55本塁打【1964(昭和39)年に記録。2013年、ヤクルトのバレンティンに抜かれるまで49年間日本記録であり続けた】

特に、シーズン55本塁打と4打席連続本塁打を記録した1964(昭和39)年の打棒は凄まじく、王自身をして「地球は僕を中心にまわっている」と思ったという。

そして1976(昭和51)年7月23日、通算本塁打記録を700号の大台に乗せると、日本中が「714本」の“ベーブ・ルース超え”に期待を抱くようになる。

迎えた10月10日、後楽園球場での対阪神戦で古沢憲司を相手に1試合2ホーマーを放ち、通算714号本塁打を記録。ベーブ・ルースに並ぶと、翌11日には山本和行から右翼ポールを直撃する通算715号本塁打。一気に“ルース超え”を達成した。

両手を掲げて大きく飛び跳ね、喜びを爆発させた王。しかし、この試合のヒーローインタビュー後、ある人物からのビデオメッセージが球場に流され、世間は早くも「次」を期待することになる。ビデオメッセージは755本のホームラン世界記録を持つ、ハンク・アーロンからのものだった。

◎ハンク・アーロン超えとその余波

ベーブ・ルースの記録を抜いてから1年後の1977(昭和52)年9月3日、後楽園球場での対ヤクルト戦で歴史は塗り替えられた。午後7時10分、鈴木康二朗のシュートを打つと、打球は超満員の右翼席へ。通算756号。ハンク・アーロンの持つ世界記録を超え、遂に王貞治が「世界のホームラン王」に登りつめた。

余談だが、この記念すべきホームランの映像は「生中継」されていない。この日、日本テレビの野球中継は午後7時30分から。中継が始まる前にホームランが出てしまったため、日本テレビには600件の抗議電話が届いたという。

球場でのセレモニー後、王はテレビ出演を終えて食事をとって午前2時過ぎに帰宅。深夜にもかかわらず、自宅周辺には700人ものファンが待ち構えており、もみくちゃにされながら玄関まで辿り着いた。世間はそれほどのフィーバーぶりだった。

この快挙を受け、2日後の9月5日に、第一号となる国民栄誉賞が授与された。「中国籍の僕ですが、これは僕個人がもらうのではない、野球界を代表して受け取るのだと解釈しました」(王貞治『野球にときめいて』より)。

◎世界記録が王の引退を早めた

国民栄誉賞を授与された王。第一号という誉れもあって王を讃える空気はその後も収まらず、園遊会に招待されるなど周囲の慌ただしさは増すばかり。こうしてオフには行事が目白押しとなったことが、王のバッティングを徐々に狂わせることになる。

「そんな日々を過ごすうちに、野球への執念みたいなものが次第に薄れていく。集中力がそがれて、打撃の技術的なチェックがあまくなっていったのです」(『野球にときめいて』)。

1980(昭和55)年6月12日の広島戦で通算850号の本塁打を放った王は記者会見で、「あと2、3年はやりたい。900号は打ちたい」と語ったが、夏場以降、ピタリと当たりが止まってしまう。

「『七五六号』という山を越えたことで周りが騒がしくなり、今までのようにボールに集中できなくなってしまった。『七五六号』が『八五○号』だったら違っていたかもしれない。夢を語るのをゆるしてもらえれば、僕はホームランを四ケタ打てると思っていたのです」(『野球にときめいて』)。

しかし、狂った打撃は戻らぬまま、この年「王貞治のバッティングができなくなった」という名言を残して王はバットを置いた。通算本塁打数は868本だった。

1980(昭和55)年は王の引退だけでなく、長嶋茂雄監督もシーズン3位の責任をとって辞任。野球界を牽引してきた「ON時代」が終わった年でもあった。

野球界からはその後、衣笠祥雄【1987(昭和62)年6月22日授与】、長嶋茂雄・松井秀喜【2013(平成25)年5月5日授与】と、王も含め計4人の国民栄誉賞受賞者を輩出している。

 

・2014年9月5日 gooニュース提供記事
http://news.goo.ne.jp/article/yakyutaro/sports/yakyutaro-20140904145813679.html?pageIndex=2
※イマジニア株式会社ナックルボールスタジアムが著作権その他の権利を有する記事コンテンツを、gooニュースで配信したものです。

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