高校野球の聖地として、数々の名勝負の舞台となった阪神甲子園球場。1924(大正13)年8月1日のオープンから、今年で90周年を迎え る。現在の高校野球大会が、当たり前のように「甲子園」と呼ばれるようになったのは、もちろん甲子園球場が完成してからだ。今回は90年の歴史を誇る甲子園球場の誕生秘話について記してみたい。
◎甲子園球場誕生秘話~あの甲子園は4カ月半で完成した!~
夏の「甲子園」が実際に甲子園球場で開催されるようになったのは、当時・全国中等学校優勝野球大会(後の全国高等学校野球選手権大会)と呼ばれていた第10回大会からだ。
前年の第9回大会は、鳴尾球場を開催場所としていた。しかしそこで、ちょっとした事件が起こる。準決勝に詰めかけた観衆が鳴尾球場から溢れ出し、試合が中 断してしまったのだ。これを契機に、周辺の都市開発を進めていた阪神電鉄は、巨大球場の建設を決心。甲子園球場誕生へと繋がっていく。
当時の阪神電鉄の三崎省三専務はアメリカやイギリスへの外遊経験もあり、武庫川をニューヨークのハドソン川や、ロンドンのテムズ川に見立てて、都市開発を 進めていた。そこで新球場も、ニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)の本拠地だったポロ・グラウンドを参考に建設。陸上競技や サッカー、ラグビーでも使用できるように設計された。設計を担当したのは、京大出身の若き技術者の野田誠三という人物で、後に大阪タイガースのオーナー職も経験する。
1924(大正13)年3月11日、いよいよ工事がスタート。敷地面積は12000坪で、50段のスタンドを設置した内野を銀傘で覆い、外野は三段の土塁で敷き詰められた収容人数約60000人の大スタジアムの建設工事は、ほとんど昼夜兼行で進められたという。
幸い晴天が多かったこともあり、実質わずか4カ月半で「甲子園大運動場」は完成した。8月1日には阪神電鉄の沿線にある150余りの学校から約2500人の少年少女が集められて、陸上競技が行われ、これが甲子園球場の幕引きとなった。
◎“東洋一”の大球場もすぐ満員
いよいよ完成した甲子園球場。やがて大会は開幕し、第1日、第2日と試合は進む。しかし、観衆は内野スタンドを埋めるのがやっとで、なかなか外野席まで埋まることはなかった。
関係者は「銀傘のある内野スタンドは埋まっても、外野まで埋まるのは少なくても5年、いや10年は掛かるのでは……」と心配した。なにしろ設備の完全さ、 施設の雄大さは“東洋一”である。今まで誰も、これほどの広さの球場を見たことがなかったので、満員になる風景を想像できなかったのだ。
しかし、関係者たちの心配は杞憂に終わる。大会4日目の日曜日は、試合開始前から内野スタンドは満席になり、午前10時にはついに外野スタンドまで満席と なった。主催者側は慌てて「満員につき来場お断り」の掲示板を用意し、阪神電鉄の両終着駅に掲出したという話も残っている。
当時の書物には、内野席から外野席までびっしりと観客で埋まったその風景を、「人間の長城」と表現している。また翌年の11回大会では、阪神電車で甲子園球場にやってきた観衆は実に33万人余りで、徒歩入場者を合わせると36万人にも及び、「当時における我が国運動史上の大新記録を打ち立てた」と記されて いる。甲子園球場建設を発案した三崎省三と、設計した野田誠三の功績は計り知れないだろう。
・2014年6月11日 gooニュース提供記事
http://news.goo.ne.jp/article/yakyutaro/sports/yakyutaro-20140611095857181.html
※イマジニア株式会社が著作権その他の権利を有する記事コンテンツを、gooニュースで配信したものです。
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