台風11号の影響で、開幕から初めて2日連続の全試合中止という異例の事態でスタートした、第96回全国高等学校野球選手権大会。早くも今夏の甲子園大会は波乱含みか……と想像させる展開だ。
長い歴史を誇る夏の甲子園では、波乱の大会はいくつもあった。波乱を印象づける事象は様々だが、今回は春夏通じて甲子園に“初出場校”が一気に“初優勝”まで登り詰めたミラクルを紹介したい。昭和の時代以降、夏の大会では春夏通じて“初出場初優勝”のケースは3度ある。その3大会を紹介していこう。
◎1949(昭和24)年・第31回大会
■優勝校・湘南高(神奈川)
戦後の学制改革から2年が経過。中等学校から高等学校への名称変更にも馴染んできたこの大会は、波乱の連続であった。全国1365校が参加し、甲子園に駒を進めたのが23校。そのうち初出場は8校で、なかでも無名だった湘南高が、驚きの全国制覇を果たした大会だ。
まさに無欲の勝利だ。2回戦から出場し、城東高(徳島・南四国代表)を9-3で撃破。「1つ勝ったから、あとは負けても構わない」と気が楽になり、あれよ あれよと勝利を重ねていき、決勝戦で岐阜高(岐阜・三岐代表)に5-3で勝利。後に慶應義塾大やプロ野球でも活躍する佐々木信也ら、チームワーク抜群の湘南高ナインが、創部4年目で初出場初優勝を成し遂げたのだった。
◎1965(昭和40)年・第47回大会
■優勝校・三池工高(福岡)
この年の夏の甲子園大会決勝は、原貢監督率いる三池工高と、銚子商高(千葉)の戦いとなった。三池工高のある福岡県大牟田市が炭鉱町とあって、新聞は「ヤマの子とウミの子の対決」と囃し立てた。結果、「ヤマの子」が2-0でウミの子に勝利。不況に悩む三池の市民たちを勇気づけた大会でもあった。
春夏通じて甲子園初出場で全国制覇を果たした原貢監督とナインたちは、故郷の大牟田市に凱旋。2年前の炭塵爆発事故で亡くなった約450人を父親に持つ選手もいたという。暗い話題が多かった炭鉱町は沸きに沸き、集まった30万人の群衆の中にいた息子は、父の背中をみて、これ程までに人々に勇気と感動を与え る「野球」を志すことを決意したと語っている。
息子とは、ご存じの通り、巨人の原辰徳監督。また、原貢監督は今年の5月29日、79歳で亡くなった。
◎1971(昭和46)年・第53回大会
■優勝校・桐蔭学園高(神奈川)
年々参加校が増え、前年より22校多い2569校の頂点に立ったのが桐蔭学園高だった。前年優勝の東海大相模高に続き、神奈川県勢が2年連続全国制覇を達成。桐蔭学園高の優勝は「日本一の激戦区・神奈川」を定着させるきっかけとなった。
決勝戦は0-1で敗れた磐城高(福島・東北代表)も思い出に残るチームだ。165センチのエース・田村隆寿は決勝戦まで3試合連続完封を記録。甲子園で34イニング目に許した失点が試合を決めたのだった。
決勝点のホームを踏んだ主将・土屋恵三郎はその後、法政大に進学。三菱自動車川崎を経て1982(昭和57)年に母校の監督に就任。春夏それぞれ5回ずつ、合計10度の甲子園出場へ導き、昨夏を持って監督の座を勇退している。
今夏の大会で、春夏通じて初めて甲子園の土を踏むのは5校。武修館高(北北海道)、角館高(秋田)、小松高(愛媛)、大分高(大分)、鹿屋中央高(鹿児島)はどんなドラマを見せてくれるだろうか。
・2014年8月11日 スポニチアネックス提供記事
http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/08/11/kiji/K20140811008726210.html
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