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ドラフト制度が未整備だった時代に、大人に振り回された高校生左腕の物語

ドラフト制度が未整備だった時代に、大人に振り回された高校生左腕の物語

10月23日に行われたプロ野球ドラフト会議は、今年で50回目を数えた。これまでに延べ4000人以上が指名を受け、数々の悲喜こもごもの人生ドラマを生んできた。その中に、今から遡(さかのぼ)ること46年前、ドラフトのルールの盲点をついた卑劣な争奪戦に巻き込まれた左腕がいることをご存じだろうか。

1年生ながら甲子園で快刀乱麻の投球をした左腕

1968年夏の甲子園大会は、ひとりのヒョロッとした長身左腕に注目が集まっていた。静岡商を準優勝に導いた、新浦壽夫である。プロ入り後は、巨人を筆頭に4球団を渡り歩き、韓国球界でも活躍した新浦。その当時は、まだ高校1年生だった。

現在のドラフトでは、高校生は「翌年3月卒業見込みで、プロ志望届を提出した選手」でなければ指名できないルールになっている。ところが、当時はそのようなルールもなく、さらに新浦が韓国籍であったことから、日本球界だけでなくMLBをも巻き込んだ、激しい争奪戦が繰り広げられた。

大人たちの身勝手な争奪戦に巻き込まれた新浦

ドラフトが初めて開催されたのは1965年。当時は世間の認知度も低く、ドラフトのルールも曖昧な部分が多かった。こうした中、日本国籍を持たない新浦は外国人選手とみなされ、「ドラフトで指名する必要はない」という解釈がまかり通った。

まずは巨人が新浦の親族へあいさつを済ませ、それに続いて他球団も「今のうちに高校を中退すれば、ドラフトで定められた上限以上の契約金を払う」と勧誘。これは当時の規約を逆手にとり、「新浦が高校を中退すれば、どの球団も自由に交渉できる」という、大人たちの身勝手な言い分によるものだ。結果、MLBのサンフランシスコ・ジャイアンツもメジャーリーグ入りを勧めるなど、日米が入り乱れた騒動に発展してしまったのだ。

結局、最初に声を掛けた巨人に入団するが……

新浦は親族と話し合いを重ね、「ドラフトにかかると、好きな球団に入団できるとは限らない」との理由で高校を中退。数球団と交渉した後、最終的には巨人にドラフト外で入団した。

新浦は憧れのプロ野球選手になった喜びと同時に、自分が韓国人だということが日本中に知れわたったことにひどく傷心したという。17歳の少年のプライバシーを無視した、当時の大人たちの振る舞いはあまりにも身勝手で、新浦少年の心に負った傷は相当なものだった。

さらに巨人は新浦とともに、同じ韓国籍の松原明夫もドラフト外で獲得。この巨人の一連のやり方を問題視する声があがった。この「新浦事件」を契機にドラフト制度は改正され、「日本で出生し、日本の学校を出た者は外国人とみなさない」というルールが加わることになった(現在はさらに細かくルールが分けられている)。

プロ入り後は、なかなか芽が出なかった新浦だが、入団8年目の1976年には50試合に登板してリーグ優勝に貢献。1977年、1978年には2年連続で最優秀防御率をマークするなど、先発、抑えに大車輪の活躍をみせた。しかし、成績不振と西本聖や定岡正二など若手の台頭で登板機会が減ったため、1984年より戦いの場を韓国へと求めた。

韓国では多種の変化球を用いた投球術を磨いて、三星ライオンズ(現サムスン・ライオンズ)のエースとして活躍。1987年には再び日本プロ野球界に復帰、大洋に入団した。自らを解雇した巨人との試合では、ひときわ燃える投球を披露。その後はダイエー、ヤクルトと渡り歩き、最終的には41歳まで現役を続けた。

未整備なドラフトのルールと、身勝手な大人たちの都合に振り回された新浦の野球人生は、まさに波瀾(はらん)万丈であったといえるだろう。

 

・2014年10月31日 マイナビニュース提供記事
http://news.mynavi.jp/news/2014/10/31/095/
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